新城市設楽原歴史資料館からの回答 [山湊馬浪]
山湊馬浪の著者について新城市設楽原歴史資料館から回答がありました。
結論
山湊馬浪の作者太田白雪とは断定できない(そうかもしれない)
愛知県史別館に掲載されている「山湊馬浪」は、太田金左衛門直筆ではなく、岩田屋半右衛門が所有していたもの(写本か原本か不明)を上津具村惣代が写し、それをさらに写したもの。
書いてある年号は、写した年号と解釈したほうが良い。
山湊馬浪を書いたのは太田白雪か、白雪の子孫かは分からない。
現在、研究途上であるとの事でした。
結論
山湊馬浪の作者太田白雪とは断定できない(そうかもしれない)
愛知県史別館に掲載されている「山湊馬浪」は、太田金左衛門直筆ではなく、岩田屋半右衛門が所有していたもの(写本か原本か不明)を上津具村惣代が写し、それをさらに写したもの。
書いてある年号は、写した年号と解釈したほうが良い。
山湊馬浪を書いたのは太田白雪か、白雪の子孫かは分からない。
現在、研究途上であるとの事でした。
山湊馬浪の根拠文献 [山湊馬浪]
前回記事【山湊馬浪とは?】
山湊馬浪という言葉の根拠となった文献について調べました。
検索すると太田金左衛門という人が書いた事が分かり、「愛知県史 別巻」
で記述を見つける事ができました。
愛知縣史 別巻「山湊馬浪」の項
著者は新城問屋の金左衛門で、書かれたのは元治2年(1865年)です。
ところが新城市教育委員会のHPには、山湊馬浪が書かれたのは1662年とあります。
魚拓
ここからは自分の推測です。
新城出身の俳人に「太田白雪」という人がいます。
太田白雪(1661-1735)の、通称は金左衛門長孝。
山湊馬浪を書いた人と、同名なのです。
山湊馬浪を考えた人は、「太田白雪」と勘違いしているではないかと思っています。
この疑惑については調査を続行します。
山湊馬浪という言葉の根拠となった文献について調べました。
検索すると太田金左衛門という人が書いた事が分かり、「愛知県史 別巻」
で記述を見つける事ができました。
愛知縣史 別巻「山湊馬浪」の項
著者は新城問屋の金左衛門で、書かれたのは元治2年(1865年)です。
ところが新城市教育委員会のHPには、山湊馬浪が書かれたのは1662年とあります。
魚拓
ここからは自分の推測です。
新城出身の俳人に「太田白雪」という人がいます。
太田白雪(1661-1735)の、通称は金左衛門長孝。
山湊馬浪を書いた人と、同名なのです。
山湊馬浪を考えた人は、「太田白雪」と勘違いしているではないかと思っています。
この疑惑については調査を続行します。
山湊馬浪とは? [山湊馬浪]
江戸時代、新城は物資を積み替える地点として賑わったそうです。
「山湊馬浪」というのは、山を港(湊)、馬を波(浪)に例えて賑わいを表しています。
参考HP 山湊馬浪プロジェクトより
新城では、「山湊馬浪」の言葉を使った様々なプロジェクト行われています。
・和菓子が似合うまち新城 山湊河岸
・高速乗合バス「山の湊号」
・山湊馬浪復活プロジェクト
新城を活性化させて「山湊馬浪」のような賑わいを復活させようとしているのです。
「山湊馬浪」というのは、山を港(湊)、馬を波(浪)に例えて賑わいを表しています。
参考HP 山湊馬浪プロジェクトより
新城では、「山湊馬浪」の言葉を使った様々なプロジェクト行われています。
・和菓子が似合うまち新城 山湊河岸
・高速乗合バス「山の湊号」
・山湊馬浪復活プロジェクト
新城を活性化させて「山湊馬浪」のような賑わいを復活させようとしているのです。